夢追い人

"It takes a dreamer to make a dream come true."―Vincent Willem van Gogh

真の雑記

文章力つけたい。
最近気持ちがたるんでおります。決して東大実戦の得点が良かったから油断しているわけではありませんが(ここは重要)

ただ、中学時代から鍛えてきた欲望コントローラーが完全に故障中です。困ったものですね。自信を失う重症には至っていませんがモチベの面にも影響をあたえているのは明らかです。
というわけでとりあえず、何か書いて気持ちを落ち着けようということになりました。



ネット界ではAdvent Calendarの季節のようで、Gnosyなどにもその一部がちらほら。そんなところで素晴らしい文章を見せつけられ、自分が情けなくなります。
もともと話をするのは苦手、文章を書くのは好きというたちでして、雑誌作成委員やら、組内パンフレット製作の指揮、作詞などで一定の評価を頂いてはいるのですが…
どうも旅行文集であったり、卒業文集、その他にもこういう普段のブログなどを書いているとそれがかりそめの実力であることを実感させられるわけです。

そういうところは国語という教科にも出てるかもしれませんね。僕ほど国語の成績が両極端にブレる人は意外と珍しいかもしれません。

それともこれはただ単に忍耐力の話なんでしょうか?他のことについてはむしろ我慢強いほうですが、文章に限っては長いものをなかなか書き続けることが出来ないんです。現に今も飽きかかっていますし(~_~;)
途中で飽きてきたときの文章はひどいです。それまで綿密に論理を辿っていたものが一気に結論へジャンプしてしまいます。


やっぱり言語っていうのは難しいんでしょうね。どんなに考えていてもそれを全て外に表すには誰しも苦労するでしょう。
そんな考え方でいけば特定秘密保護法だってそういうものなのかもしれませんね。実際には色んな基準が考えられるんだろうけども、それを文章化するのは難しい。そのために曖昧になったところにマスコミや野党が畳み掛ける…

反対派は自由が損なわれると言います。でも、文章から、言葉から伝えられる情報なんてものは限られているのだから、今までだって知る権利なんて無かったんじゃないかと近頃は思います。
政治家、官僚、マスコミ…その他大勢の人々の思惑が入らない情報なんてものは、実体験でしか手に入れられません。そもそも実体験であったって自分の主観というレンズが介入してしまう(こんな文章を前に現代文で読んだ気がしますが)
そうであるならば、なんだろうな、情報を得るっていうのは、どうせ客観的情報なんて手に入らないんだと寛容な態度で行うべきだと思うし、逆に自分から発信していく時はとりあえずしがらみは放っておいて果敢になって、それに対する周りのレスポンスから学習していくべきだと思うんですよね。

なんか文章の主題が大きくなってしまいましたが要するに、法の曖昧さへの不安は捨てろということです。濫用は、それが本当に悪いことである限り淘汰されるはずです。善を信じることが自由につながると僕は思うんです。

では、今日はここらへんで(^^)