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夢追い人

"It takes a dreamer to make a dream come true."―Vincent Willem van Gogh

人工知能学会の表紙問題と差別批判のあり方について

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人工知能学会の表紙は女性蔑視? - Togetterまとめ

なんか色んなところですでに使われているので、僕も使いますが表紙画像の使用に支障があればすみません。しかるべき立場の人からの苦情があれば訂正します。

さて、学会側が釈明することになったこの騒動。確かに女性蔑視にとれるという意見も分からなくもないのですが、これを女性蔑視とすることに違和感を感じたので差別一般に広げつつこの問題についての意見を述べていこうと思います。


受験の息抜きが最近非生産的なものばっかりなのでそれを是正するという意味合いもありますが…とりあえず一男子高校生の意見として読んでくれれば幸いです。

表紙を女性蔑視としたときに生じる疑問

まず女性蔑視とみたときに生じる疑問を列挙していこうと思います。以下は一般的に考えた時であり、女性蔑視と主張する方々の意見は踏まえていないのでそこはあらかじめご了承願います。

  • 力仕事をする男性ロボットの表紙であったら男性蔑視となるのか?
  • ロボットに人間らしさを与えてはいけないのか?
  • 家政婦のミタなども同じ論点から女性蔑視とならないのか?
  • 同じ論点から女性が昔からの女性のイメージで描かれる諸々の作品も女性蔑視となってしまうのではないか?

とりあえずこんなところでしょうか。やはり女性蔑視を適用したときに一番問題になるのは、なぜこのケースが特に騒ぎ立てられるのかということです。たまたまということもあるでしょうが、この表紙を女性蔑視とする基準でみれば世の中にある作品のほとんどすべてが女性蔑視になってしまうように僕は思います。
また、表紙の代替案として考えうるものにも似たような疑問が持ち上がります。最初の二つの疑問に見るように、仮にロボットを男性にしてそれに力仕事をさせた場合、同じ論点からこれは男性蔑視ということになります。これを否定するフェミニストはただ自分が特別になりたいだけととられても仕方ありませんし、これは論理的に正当な結論と思います。そうすると次にこの状況を避けられるためにロボットの性別を無くすことが考えられます。しかし今度は「ロボットは性別を持ってはいけない」という立場にたたなくてはならず、これはロボットへの差別と言っても差し支えは無いと思います。以上を踏まえると今度は「男性ロボットに掃除させる」とか「女性ロボットに力仕事をさせる」などが思いつきますが、今回の表紙を女性蔑視と見る見方でいけばすべて特定の見方を強要することになり差別は避けられません。

女性蔑視を主張する人は何を問題にしているのか?

さて以上の議論を踏まえると女性蔑視を主張する人は何を問題視しているのかという根本的な問いにぶつかります。仮に差別を問題にしているのであれば、先に見たようにどのようにしてもある立場の人たちから差別だと見られる可能性があるので、表紙にロボットを描くこと自体が問題ということになります。しかし、これも実際「表紙はこうあるべき」という見方を強要してしまっているので、差別を根本から無くすことは不可能であると言えると思います。どこかで基準がなければいつまでたっても批判の対象になりますから。
ということは今回は女性蔑視だけが問題になっているということになるのでしょうか?仮にそうであればなぜ数ある「差別」の中で女性蔑視のみが問題になってしまうのでしょうか?

女性蔑視と差別の意味

これまでで僕はさりげなく差別を「特定のものに特定の見方・価値観を強要する」という定義で使っていました。これは今回の批判が「女性ロボットに掃除をさせるのは女性が掃除をすべきという見方を強要する女性蔑視だ」といった内容だったからです。
ではこの定義の元で女性蔑視というものについて掘り下げてみましょう。すると女性を特別化するのが女性蔑視なのですから、女性専用車両や女性更衣室、極端なことを言えば女子トイレだってこの定義のままだと女性蔑視ということになります。これではさすがに論点がずれてきていますよね。では、僕のこの定義のどこが不足しているのでしょうか?
差別の一般的な意味合いから推測するにそこには見下すような感情の有る無しという観点が抜けていると考えられます。でもここで新たな疑問が生じます。はたして掃除をするという行為が見下されるようなものなのかということです。
こうやって考えていくと女性蔑視という概念が実に不明瞭なものであると感じられてしまいます。

ジェンダー

そもそも女性蔑視という考え方が生まれたのは社会的性差という概念が認識され始めてからです。世界各地で文化が形成されていく中、性別によっての役割分担が生まれました。先進国とよばれる国々では大抵それは仕事は男性、家庭は女性というものでそこに金銭の流れが加わったことで自然と女性よりも男性の役割が有利なものになったんだと思います。結果この立ち位置の高低差をなくすため男女雇用機会均等法のようなものが生まれはじめました。しかし文化的価値観はなかなか変わらないためにフェミニストとよばれる人々から女性蔑視が批判の対象になったわけです。もちろん女性を差別するような見方は残っていると思います。しかしこれは必然的に生まれてしまったということを忘れてる人が多いのではないでしょうか?事実、平安時代ころまで日本では女性が優位にたっていました。現代でも女性の立場のほうが上である文化は存在します。つまり女性蔑視の廃絶というのはこの社会的性差の撤廃に他ならないわけです。

結論

社会的性差を撤廃すること、これは全くもって否定しません。むしろ男性だから云々という男性蔑視だって存在するわけですから、これは女性はもちろん男性にもはたまたオカマやオナベの人たちにも歓迎されることだと思います。でもだからといって創作物に難癖をつけるようなことがはたして社会的性差の撤廃につながるのでしょうか?僕はむしろこのような行為は社会的性差の逆転にしかつながらず根本解決にならないと思うのです。そもそも社会的性差が撤廃され性別による役割分担がなくなったとすれば、掃除をする女性だって力仕事をする男性だって全くもって特別な意味を持たなくなるのです。つまり、これらは女性の身体特徴を持った掃除をする人間であり、男性の身体特徴を持った力仕事をする人間に過ぎないわけです。つまりこのことを女性蔑視と見ること自体が社会的性差の固定的観念に囚われた「女性蔑視」に他ならないのではないでしょうか。

以上述べたことは最初に書いたとおり僕の私見です。でも差別という問題はそれがとても道徳的な価値観に根ざしている以上過剰な反応がかえって逆効果になっている可能性を含んでいるということは認識しておくべきことなのかもしれません。それが特に歴史に左右されるものであれば尚更です。
今回学会は立場上釈明というかたちをとることになりましたが、今回批判されたフェミニストの方々にはぜひこのような考え方の存在を知ってもらった上で、今回のことを単なる勝利といったような意味合いに捉えないようにしてほしいなと思います。