夢追い人

"It takes a dreamer to make a dream come true."―Vincent Willem van Gogh

人とインターネット

※この文章は途中で議論が飛躍していたり、循環論法になってる点があるかもしれませんが、一学生が出した結論として受け止めてください。



はじめに

すごい、なんていうかそれっぽいタイトルになってしまったけど、この記事で今から述べることは僕が16才現在としてある問題を提起し、それについて出した一つの結論で、決して真理ではないということを最初にご承知いただきたい。
この文章を読むにあたっては、『突然、僕は殺人犯にされた』という竹書房からでているスマイリーキクチさんの本を先に読んでいただくと、僕がこの問題を提起するにあたった経緯などよりわかるかもしれない。

問題提起

さて、今回問題にすることはタイトルのとおりインターネットについてである。僕たちは現代文の授業で先ほど紹介した本を読み、その感想を書くという課題を行なった。そして今日の授業で、その感想集が配られたわけだが、書いていた当初とは違い、その感想集を読んでいるうちにひとつの疑問が浮かんできた。それは…
ネットだからこそ、モラルが問われるという考え方は正しいのだろうか?
というものである。違和感といったほうが正しいかもしれない。そして、この疑問を考えてみた結果ある一つの新しい見方というものが見えてきた。

インターネットによって表面化された人間の弱さ

さて、僕は先ほどの問題についてなぜ疑問を感じてしまうのか、そこから考えてみた。そしてそれは、「インターネット」や「匿名性」といった過去になかった概念によって議論がごまかされているからだということに気づいた。
たしかに「匿名性」というワードだけを見ると、”気を付けなければならない”、”本音を語り合える”などいくらでも言えるだろう。でも、本当に過去の歴史には「匿名性」のような自分の理性から脱却できるものは無かったのだろうか?
ここまで考えてきたとき、具体例として思いついたのは「いじめ」である。この「いじめ」というものの歴史を見ていくと、そこに新しい概念で誤魔化されていた根底に流れる問題が見えてきたのである。

「いじめ」といえば?そう。平成の世になって社会問題化してきた重要なテーマでもある。でも、昔はいじめが無かったのだろうか?これはもう色んなところで明らかにされてることだが、もちろんのこと昔にもいじめがあったのであり、ただ社会問題化しなかっただけである。
そしてここまでいじめというものを何も考えずに見ていくと、「あぁいじめが現代になってひどくなったんだな」と思う人が大多数だろう。
しかし、芸能人の昔話などを話しているのを聞くとむしろ逆で、昔は現代のいじめよりももっと酷いいじめがあったのである。
ではなぜ、「いじめ」は生まれるのだろうか?

それはネットによって子供の考え方が歪んだからではない。これはもちろん分かりきったことであると思うが、深く考えてみるとここに「集団心理」の本当の怖さが見えてくる。しかもここでの「集団心理」はネットでの「集団心理」とは少し質が違う。それはローカルという環境で生まれてくる。
つまり有限の人の間での集団心理というもので、それがなぜ怖いのかというと、有数であるが故に誰かが裏切らなければその集団間では秘密が保たれるため、一種の「匿名性」に似た”安心感”が生まれてしまうのである。しかもそのような集団間の秘密は外部からみたら本当になにもないように見えてしまうのである。
さてここで本題のネットを見てみよう。ネットが普及した結果、情報は簡単に広まるようになり、不特定多数にさまざまなことが見えてくるようになった。これはつまり仲間内が裏切らなくても、第三者が異変に気づけるということでもある。
だからこそ、いじめは社会問題化し、実際に体験してない人でも問題視するようになったのだ。

ここまで言えば僕がなにを言いたいかわかるだろう。つまり、「インターネットの匿名性があるからモラルの無い人が増えてしまった」のではなく、「インターネットの不特定多数に情報が伝わるといった性質がもともと人間が持っていた弱さを表面化した」のである。
不特定多数ともなればもちろんのことながら有限よりも、正しい自我をもった人がいる確率も上がるわけで、そういう見方をしてみるとこの結論もあながち間違ってないのではないだろうか。

ネットに感じている本当の恐怖

ここまで、実はインターネットはなにも悪い影響を人間に与えておらず、むしろ人間のもつ本来の問題を表面化しているといったことを説明してきたわけだが、この議論を発展させるとまた面白い見方が生まれてくる。
まず前提として、感想文集に「インターネット」と「科学」を同一視するものがあった。その人がどういう意味で同一視したのかは、もしかしたら僕の見解とは違うかもしれないけどそれは問題ではない。
では歴史を振り返ってみよう。なぜ、昔「科学」は受け入れられなかったのか?これはもちろんのことながらキリスト教との対立というのはよく知られていることである、が、宗教と科学が対立したのはなぜだろうか?
それは当時の人々が「真実」が明かされてしまうことを嫌ったからである。宗教から「本当に全て神様のおかげ」と思う人は大多数ではないだろう。でも、その神様を信じているから、恩恵を受けたいから、自分の努力の結果だとしても次の御利益のために祈る。でも、科学はそのようなことが自然的に「ありえない」ことを証明してしまう、怖い金槌なのである。そして、それによって宗教という仮想の世界にいた人たちを無理やり真実の世界に引き戻してしまう。

インターネットも同じなのではないか?
今の人たちは具体的に起きている問題だけをみて「ネットは怖いから」、「注意して使ってね」などという。でも、これはもっと深い無意識の世界、つまり本能の世界では、「人間が他人を貶めたくなる弱い生き物」だということが明らかにされるのを怖がっているのではないだろうか。
そう、それは「科学」の時と同じ「真実」に対する恐怖なのである。

現代の人々はネットという新しい世界と、競り合いを続けながら、「真実」に向き合ってるのではないかと僕はおもう。
言わば今は「真実革命」の真っただ中なのであろう。

おわりに

断定口調などで誤解を含む表現になってしまったところもあるが、このようにしかかけないので許して欲しい。
今回出した結論はあくまで、「僕」の「現段階」での結論である。でも、これは面白い見方だと思うし、もっと洗練していきたいなとも思っている。
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ここまで読んでくれた方はありがとうございました。
あ、あと今回の記事については意見・反論は受け付けません。これを読んで思ったところはみなさん自身のメディアでまとめていただければ幸いです。